2026年7月23日、マニラで開かれたASEAN関連外相会議に、中国の王毅外相の姿はなかった。表向きの理由は日程調整とされたが、現地では南シナ海を巡るフィリピンとの対立が背景にあるとの見方が広がった。同じ週、スカボロー礁付近では中国海警局の船がフィリピンの漁業当局船に放水銃を発射する事案が5日間で3度発生している。一方で、中国とASEANの貿易額は2025年に1兆ドルの大台を突破し、ASEANは中国にとって最大の貿易相手であり続けている。経済的な相互依存が過去最高を更新する中で、なぜ安全保障面の摩擦は深まっているのか。そして、この「温度差」は日本企業のアジア戦略にどう関わってくるのか。本稿ではその実像を整理する。
貿易は「過去最高」――中国・ASEAN経済関係の実像
中国税関総署などのデータによれば、2025年1〜8月の中国・ASEAN間の貿易総額は4兆9300億元(約101兆円)に達し、前年同期比9.7%増加した。これは中国の貿易総額の16.7%を占め、ASEANは単一の相手先として中国最大の貿易パートナーの地位を維持している。2022年に発効したRCEP(地域的な包括的経済連携協定)の関税削減効果もあり、中国からASEANへの輸出は上半期で前年比13.0%増と伸びが際立つ。中国商務省は、日韓を含めた中国・ASEAN・日本・韓国の累計相互投資額が7000億ドルを超えたとも説明しており、サプライチェーン面での結びつきは年を追うごとに強まっている。品目別では電気機械・電子部品、機械類、農産品がASEAN・中国間貿易の主力であり、ベトナムやマレーシアの電子部品輸出、インドネシアのニッケル関連原料輸出などが牽引役となっている。世界銀行は2026年の中国の成長率を4.4%、2027年を4.3%と予測し、不動産セクターの調整や消費者マインドの慎重さが続くとみているが、対外貿易、とりわけASEANとの関係は数字の上では衰えを見せていない。
南シナ海で相次ぐ衝突――2026年7月に何が起きたか
その一方で、南シナ海では緊張が高まる場面が続いている。7月23日と24日、スカボロー礁(中国名・黄岩島、フィリピン名・バフォ礁)付近で、中国海警局の船がフィリピン水産当局の船に対して放水銃を発射する事案が発生した。フィリピン沿岸警備隊はこれを「危険な行為」だと非難している。中国は2012年の対立以降、同礁を実効支配しており、2016年の仲裁裁判所裁定――中国の主張する「九段線」に国際法上の根拠はなく、中国によるフィリピン漁民の締め出しも違法とする判断――を一貫して拒否してきた。中国海警局によるスカボロー礁周辺での巡視は、この裁定以降の10年間で約3倍に増加し、2026年上半期だけで延べ933隻・日に達したとされる。5月には同礁付近に測量用とみられる浮遊式構造物が設置されており、埋め立てをにらんだ動きではないかとの警戒も出ている。スプラトリー諸島(南沙諸島)付近でも、中国海警局の要員がフィリピン海軍兵士を棍棒で殴打し負傷させる事案が報告されるなど、局所的な衝突が積み重なっている。
王毅外相はなぜ会議を欠席したか
こうした状況を背景に、7月23日にマニラで開催されたASEAN関連外相会議には、中国の王毅外相が出席しなかった。フィリピンとの間で南シナ海問題を巡る対立が深まっていることが理由とみられている。会議には日本、米国、オーストラリアなども参加し、南シナ海での中国の行動に対する懸念や批判が相次いだ。読売新聞は7月24日付の社説で、南シナ海における中国の「現状変更」の試みに対し、関係国が連携して対処すべきだと論じている。ASEAN外相会議の共同声明では、係争防止のための「行動規範」(COC)交渉について、年内の妥結に期待感が示された。ただしCOC交渉は2002年の「行動宣言」(DOC)採択以降、20年以上にわたって遅々として進んでこなかった経緯があり、今回の年内妥結目標が達成されるかは不透明だ。なお、2026年のASEAN議長国はマレーシアであり、日本の岩屋毅外相は7月9〜12日にクアラルンプールで開かれた日・ASEAN外相会議に出席し、GX・DX分野での協力や「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」構想の共有を強調している。
ASEANの結束はどこまで保てるか
ASEANの対中姿勢は一枚岩ではない。南シナ海で中国と直接の領有権争いを抱える国と、地理的に紛争から距離があり対中経済関係を優先する国とでは、温度差が大きい。この違いこそが、ASEANが「結束して中国に対応する」ことを難しくしてきた構造的な要因である。
| 国 | 南シナ海における立場 | 対中経済関係の傾向 | 2026年の動き |
|---|---|---|---|
| フィリピン | 係争当事国(スカボロー礁・南沙諸島) | 米国との安保協力を強化しつつ経済関係は維持 | 中国海警局との衝突が頻発 |
| ベトナム | 係争当事国(西沙・南沙諸島) | 対中貿易依存度は高いが警戒感も強い | 独自に実効支配範囲の拡大を模索 |
| マレーシア | 係争当事国(南沙諸島南部) | 経済関係を優先し対立の表面化を回避 | 2026年のASEAN議長国として調整役を志向 |
| インドネシア | 非公式の係争(ナトゥナ諸島周辺) | 対中投資受け入れに積極的 | 比較的中立的な立場を維持 |
| カンボジア・ラオス | 非係争国 | 対中経済依存度が高い | COC交渉で中国寄りの立場をとる傾向 |
この表が示す通り、フィリピンやベトナムのように直接の当事国は対中警戒を強めやすい一方、カンボジアやラオスのように経済的に中国への依存度が高い国は、ASEANとしての対中共同歩調に慎重にならざるを得ない。COC交渉が年内に妥結したとしても、法的拘束力の有無や適用範囲を巡ってASEAN内部の意見がまとまるかどうかは別問題であり、これがASEANの「中心性」の限界だとの指摘も根強い。
日本企業への実務インパクト
「政治は政治、経済は経済」と切り離して考えることが難しくなっている点に注意が必要だ。象徴的なのがフィリピンである。同国の輸出は電子部品・半導体が5割超を占める構造で、中国+1の生産移管先として存在感を強めてきた。CREATE MORE法による投資優遇も追い風となり、同国の半導体市場規模は2025年の67.7億ドルから2026年には72.1億ドルに拡大すると見込まれている。半導体地政学ガイドで解説した米中の技術覇権争いとも重なり、フィリピンは「地政学的に安全な生産拠点」という期待を集めてきた国の一つだ。しかし、その当のフィリピンが南シナ海を巡って中国と直接衝突する当事国であるという事実は、サプライチェーンの分散先として見た場合のリスク評価に、新たな変数を加えることになる。
実務的には、以下の点をおさえておきたい。第一に、南シナ海情勢の悪化が直ちに現地の事業活動を止めるものではないが、フィリピン近海を経由する海上輸送ルートの保険料やリスクプレミアムが変動する可能性はある。第二に、ASEAN域内での事業展開を検討する際は、進出先国が南シナ海問題の当事国かどうかで、政治リスクの性質が異なる点を認識しておく必要がある。フィリピン・ベトナムのように領有権争いの当事国である国と、マレーシア・インドネシアのように経済関係を優先する国とでは、政治リスクの現れ方が異なる。第三に、COC交渉の年内妥結が実現するかどうかは、ASEANという枠組み全体への信頼性を測る試金石になる。仮に交渉が難航・決裂すれば、ASEANを単一の経済圏として扱う投資戦略そのものの前提が揺らぐことになりかねない。国別の進出実務についてはアジア進出ガイドで費用・ビザ要件などを国別に整理しているので、あわせて参照してほしい。
ASEAN域内における政治リスクが投資判断に影響を及ぼす構図は、南シナ海に限った話ではない。本サイトでもすでに取り上げたタイの政治リスクのように、国境問題や政権基盤の不安定さが日系企業の事業計画に影を落とす事例はASEAN各地で見られる。南シナ海問題が特異なのは、当事国同士の摩擦にとどまらず、日本・米国を含む域外国の関与や、ASEANという地域枠組みそのものの結束力が問われる点にある。
よくある質問
南シナ海の緊張は、フィリピンでの事業に具体的にどう影響しますか?
現時点では首都マニラや主要な工業団地の事業運営に直接的な支障は出ていない。ただし、スカボロー礁・南沙諸島周辺の情勢は流動的であり、海上輸送や保険コストへの波及、現地世論の対中・対米感情の変化には注意が必要だ。最新の危険情報は外務省海外安全ホームページで随時確認することが望ましい。
中国・ASEANの貿易額拡大は今後も続きますか?
RCEPによる関税削減効果や、中国からASEANへの生産移管・投資の流れは構造的な要因であり、短期的に反転する可能性は低いとみられる。ただし、南シナ海情勢の悪化が長期化すれば、一部の投資判断において政治リスクプレミアムが意識される場面は増える可能性がある。
今後の注視ポイント
短期的には、8月以降のCOC交渉の進展状況、スカボロー礁・南沙諸島周辺での衝突の頻度、そしてASEAN議長国マレーシアの調整力が焦点となる。中長期的には、貿易・投資では過去最高を更新し続ける中国・ASEAN関係が、安全保障面の摩擦をどこまで許容できるかが問われることになる。日本企業にとっては、「経済的な結びつきの強さ」と「地政学的な安定性」を別々の軸で評価する視点が、これまで以上に求められている。
出典・参考情報
- 日本経済新聞「中国、『ASEAN結束』崩す フィリピンと対立で外相が会議欠席」(2026年7月)
- 財経新聞「中国海警局、スカボロー礁でフィリピン船に放水 5日間で3度目の妨害」(2026年7月27日)
- JETRO「フィリピン(2)エレクトロニクス、量産型の輸出拠点で差別化」
本記事は公開情報に基づく一般的な分析であり、個別の投資判断を保証するものではありません。最新の安全情報は外務省海外安全ホームページでご確認ください。